【目からウロコ!】七田式教育の代表 七田厚が語る幼児教育「その時、父は…」第22回 七田 厚
初めての子育て
前回、父(七田眞:七田式教育創始者*)が20代半ばで余命宣告を受けたことがあると書きましたが、実は療養中に行き始めた貸本屋で、『英才教育の理論と実際』という本との出合いがありました。
その本は大正の終わりごろに出された古い本で、そこには、父が長い間疑問に思っていた人間の才能や素質について、その解答が書かれていたのです。
それを読んだ父は、直感的にそこに書かれていることが真実であると信じ、結婚して子供が生まれたら、そのような子育てをしようと思い、その本を買って帰りました。
そして、病を克服し、母と結婚した翌年、30歳の時に待望の第一子を授かりました。
その時、父はどうしたでしょう?
2~3か月のころから話しかけた
―子育てには積極的に関わった。淳(第一子)をよく抱き、妻に負けずに私も世話をした。おむつも上手に換えたし、ミルクも飲ませた。夜泣きには、私も起きて、淳を寝かしつけた。
私は淳に、生まれた時から、大人に話しかけるように、はっきりした言葉で話しかけた。赤ちゃん言葉は使わないようにした。赤ちゃん言葉を子供が覚えると、後でもう一度それを普通の言葉に学び直さねばならないからである。―(七田眞著『生きて来た道・第八集』より)
そして、まだ寝てばかりいて、起きている時間の少ない2~3か月のころにも、放りっぱなしにせず、愛情をかけ、手をかけ、話しかけるように心がけていたそうです。
しっかり目を見開いて、周囲に関心を向けるようになると、抱いて家の中を歩きながら、家具を指さして、一つひとつの名前を言って聞かせ、また、体の部分を指さしては、「これは手。これは足…」と言って聞かせたといいます。
誰にでもできるやり方で…
しかし、それは、わが子を天才に育てようと思ってしていたわけではありませんでした。
父は、一日中、子供のそばにいて、できる限り賢い子に育てようとは考えず、「普通の若い両親が、自分たちのとれる日常生活の時間の中で、できる範囲の子育てをし、学課を自分の力で楽に学んでいける子供を育てたい」と願っていたのです。
そうして育てられた長男は、1歳2か月から、はっきりした言葉をしゃべり始め、2歳になった時には、もう言葉を自由に話すようになっていました。
そのころから、字を教え始めると、「山」「川」など、漢字がどんどん読めるようになっていき、2歳半のころには、ひらがなもカタカナも読めるようになっていたそうです。
父は、世間に早期教育の風潮がまったくなかった昭和30年代に、わが子にいろいろ試みていたのです。
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七田眞:七田式教育創始者
現在では、世界14か国に広がる「七田式教育」創始者。著書は200冊を超える。